本シンポジウムの問いかけに対して、川島素晴さんは「Nさんの仕事をAIがやるのは(当時も今も)無理であった」という立場であり、将来的にできるようになるかもしれないが、それは人間の作曲家との「エンドレスな追いかけっこになるだろう」ということであるから、表題の「S氏がAIをゴーストライターに使ったら」という設問自体が成り立たないという立場であった。
これに対して、「いやいやAIも頑張るぞ(今後)」という立場の明確な主張が私にはよくわからなかった。もちろん、中ザワヒデキさんのように「AIにはこんなことはできないだろうと思っている人間の作曲家にはこんなことはできないだろうとAIが言い出す」という立場の方もおられるのだが、私自身が反対の立場をとっているせいかもしれないが、すんなり頭には入ってこない。
川島さんの主張する、特定の室内管弦楽団(ここでは「いずみシンフォニエッタ」)のための大編成の既成曲の編曲作業についての議論も、もうひとつ結論が見えずに終わったように思う。AIがいずみシンフォニエッタのリハーサルに常に立ち会って、ひとりひとりの演奏者の演奏を吟味するというところまでやらなければ「現在の」川島氏の仕事すらできる可能性はないというのが実態だろう。発言者の方の「むしろそういう編曲の仕事がAIに向いている」というのは今後数十年スパンで考えればありうる議論かもしれないが、川島さんは近い将来の話をしているわけだし、人間の作曲家も進歩するという立場であるからかみ合わない。
一方、「身体表現を取り入れない限り、西洋音楽にこれ以上の発展は望めない」という川島氏の主張も私には極論に思える。たしかにすでに30年も前に、ジャズピアニストの小曽根真さんがラジオで「曲を作って、それまでの曲に似ていないということはありませんよ。無理です。どうしても似た曲はある」といっておられたのを思い出す。小林=服部のケースでも私は服部さんにやや同情的である。似ているかと言われれば似ているが、似たようなケースは世にごまんとあるだろう。
さはさりながら、今でもあっと驚くようなポップスの新曲は生産されている。旧聞に属するが日本人として宇多田ヒカルや椎名林檎は大収穫だし、ハーフディミニッシュに解決するという新手を思いついた米津玄師とか、細かいと言われるかもしれないが、これはこれで日々新しくなっているのだ。私の知らない欧米やアジア、アフリカ圏での展開もあるだろう。
いまだ、平均律を使って12音でもなく、メシアンでも、プロコフィエフでも、ショスタコーヴィチでも、リゲティでも、ルトスワフスキでも、ヘンツェでもない、新たな音楽を書く余地はいくらもあると思っている。
川島さんがデイヴィッド・コープの仕事に触れて、コープのEMIによるバッハなんて(バッハならこう書かないというところが多くまだまだである。あれでよしとするコープの耳が甘い)という話をしておられたが、むしろ私はEMIといろいろ話をしてみたい(できるかどうかは別として)と思う。バッハの真似にしても、ここはどうしてこうしたのか、こっちのほうがいいのではないかとか。調べてみればきっと面白いのではないかと思うし、その結果はEMIにも人間の作曲家にも有益ではなかろうか。将棋の羽生さんの「コンピューターがどんな将棋を指すのか見てみたい」とおっしゃるのもよくわかる。ジャズ界でも、ハービーハンコックがラヴェルのピアノコンチェルトの第二楽章に施した、編曲とも言えないようなちょっとした編曲など、音の新しい使い方をいろいろ示唆してると思う。
AIの著作権とか、法的な面から言えば、赤坂さんが言う通り、自然人にはできなくてもAIに法人格を与えてしまう手はあるだろうと思う。もちろんそれはAIが自意識やクオリアに目覚めるという意味ではない。いまさらながら、アシモフのBicentenial Manの先見性には目がくらむような気がする。アシモフの描くAndrewのようなAIが出てくる可能性はゼロではないだろう。
さらに言うと会場は女子高生おじさんの「唯物論」に傾斜していたようだが、すでにわれわれは21世紀も20年経った時点におり、多世界解釈をとろうがどうしようが構わないが、量子物理的確率の雲の中で立ち尽くしているということを忘れてもらっては困る(笑)。ごりごりの「唯物論」は「決定論」ではなくなっているのはもちろん(「ラプラスの悪魔」は死んだ)自由意思というものは、物理学で整合的に説明できるようになっているのだろうか。最後の意識は何物でもないかもしれないという議論はもうひとつよくわからなかったので誰か教えてください。
川島さんの双子座三重奏団さんとの演奏会に見る「一見奇をてらっているようだが実は本質的な新しさ」というのもあるし、手前味噌だが、私以外に「ポツダム宣言」に曲をつけて歌ってもらおうと考えた人はいなかったと思うし現代音楽はいろいろな方向へAIがあろうがなかろうが「日々新た」である。