これを最初に聞いたときはびっくりしました。楽譜はたしかにイ長調らしいのですが、機能的な和声を書こうという意思はまったくないし、対位法的に書こうという意思もみとめられない。絃楽器で勢いよく演奏されるとなんとなく納得してしまいますが、そうとう実験的な音楽です。しかも、成功しているのがすごい。
この冒頭部分(練習番号1まで)はすべて16分音符ですが、見易さのために最初だけ16分音符で書いてあります。音はこちら。
弦楽四重奏だとそうでもないのですが、ピアノの音にしてみると超機械的な感じがします。
最近は「現代音楽」という言葉がはやらなくなった。確かに、60年代ならともかく、21世紀に入って、シェーンベルク以降の西洋音楽をまとめて「現代音楽」というと幅が広すぎるということもあるだろうし、もともとcontemporary musicの訳だろうから、現代に広く行われる音楽と解すれば、(日本では)AKB48とEXILEと嵐が「現代音楽」だ。
ポピュラー・ミュージックに対して、シリアス・ミュージックという言い方もあるのだけれど、これもどうかと思っている。
seriousというのは、英語の辞書をひくと、1. bad or dangerous 2. needing thought 3. important 4. not silly 5. not joking 6. large amount (Oxford Learner's Dictionary)ということらしくて、どうもうまく当てはまらないような気がする。
(一部、dangerousな現代音楽があるのは承知している。聞いていて気分が悪くなり、救急車で運ばれるという…。私自身も救急車までは行かなかったが、吐き気がしてきたことはある。川島素晴さんは個人的には存じ上げないし、含むところなぞまったくないのだが、その音楽は実は私にとっては鬼門で、先日もオンドマルトノの独奏曲を聞いていて途中で気分が悪くなった。ま、相性の問題でしょう)
まー、needing thoughtあたりのことを言っているのかもしれないが、別に考えなくても感動する曲もあるしね。
結局、いくつかの指標を組み合わせて使っていくしかないと思うのですよ。音楽の分類なんて不要だという意見もあろうが、といって、Duke Ellingtonの有名な"good music and the other music"というのもほぼ思考停止に近い。ある程度整理してかかることは、モノゴトの理解を助けると思うのであります。
そこでまず、第一に、商業的に売れるかどうかという軸を立ててみたい。モーツァルトも予約演奏会で稼いだくらいだから、資本主義の確立以前から、音楽で儲けるという概念はあるわけで、金になるかならないか、というのは重要なファクターだと思う。いわゆる「現代音楽」、売れませんなー。すでに確立したジャンルである新ウィーン楽派=12音技法からして、商業的には成功したとは言えないでしょう。もちろん、映画音楽、ドラマ音楽の表現は12音技法以降大変広がったとは思う。思うけれども、12音で書かれたはやり歌とか、セリエルなヒットソングとか、まあないよね。
第二に、前衛的・実験的かどうかという軸もあると思う。どんどん新しいこと、実験的なことを手掛けていくミュージシャンというのは存在していて、西洋伝統音楽系、ジャズ系、ロック系、それぞれにアヴァンギャルドは存在する。面白いのは、マイルス・デイヴィスで、彼はあれだけどんどんスタイルを変えて新しい音楽にチャレンジしていながら、最後まで「売れる」ことにこだわっていたフシがある。ヤク中から復活後のアルバム、"The Man with the Horn"は「よく売れた」といっていたし、マイケル・ジャクソンの曲を取り上げたりしていても、対抗意識があった。実際、彼のアルバムは50年代にはヒットしていたのだから、また売れるようになる、ジャズの時代が戻ってくるという信念があったに違いない。
第三に、音楽的/反音楽的という軸もあると思う。ジョン・ケージが有名な4分33秒を書いて、終止符を打った感はあるが、ロックの世界でもギターを燃やすとか、キース・エマーソンも楽器を粗末にするし(笑)、そうそう、山下洋輔が燃えるピアノを弾き続けるというパフォーマンスがあったりした。音楽を一回否定したいという気持ちもわかるし、時代精神だろうとは思うが、何かを生み出して育てていくようなものではないように思う。否定は一回やったら、そこで終わりだろう。楽器の特殊奏法などで、可能性を広げていくというのはわかるが、楽器が壊れるような使い方をするのはいかがなものか。全国のホールが自分のところのピアノでプリペアードピアノはやめてくれって、そりゃ当然だよね。
第四に、聞き手の努力を要求するかどうかという軸がある。正直に言うと、私の場合、ジャズが好きになるには相当高い壁がありました。FMでやってるのを聞いても、なにがどうなっているのか、なにがおもしろいのかさっぱりわからなかった。これは非西洋音楽にも言えることで、要するにその人のいる文化的環境に左右される基準なのだと思う。大学の軽音楽研究会に入って、実際に演奏している人の中に入れてもらったら一発で「わかった」。民謡とか民族音楽もそうだと思うのですよ。日常で聞いていればなんとなくわかる。そういう意味では、この第四の軸に関しては他の三軸とはやや性格が異なるかもしれない。
ということで、結論だが、最初の3つの軸でYES/NOの超おおざっぱな分類をしたとして、2の三乗=8種類の分類ができることになる。
1.商業性がなく、前衛的で、反音楽的なもの
2.商業性はあり、前衛的で、反音楽的なもの
3.商業性がなく、伝統的で、反音楽的なもの(これは論理的に矛盾してるな)
4.商業性があり、伝統的で、反音楽的なもの(反音楽的儀式的な土着音楽でショー化されたりするとこうなるかも)
5.商業性がなく、前衛的で、音楽的なもの
6.商業性があり、前衛的で、音楽的なもの(ないわけではない。テクノなんか売れたもんね)
7.商業性がなく、伝統的で、音楽的なもの(土着の民族音楽にはこれが多いかもしれない)
8.商業性があり、伝統的で、音楽的なもの(いわゆるクラシックで客の入るものはこれでしょうね。ショパンとチャイコフスキーにラフマニノフか)
ぜひ、6番を目指したいところだが、これがそう簡単ではないだろうなぁ。せめて若くて美貌の女性だったら…
竹内まりや featuring 木村拓哉 の「今夜はHearty Party」である。このdanceable tune はバークレーメソッドのお手本のようなコード進行になっているので、解析(というほど大げさなものではないが)してみたい。
Bbメジャーの曲だが、ところどころでスパイスが効かせてある。10小節目はEbm7で、これは次のDm7への半音上からのアプローチになっているとも取れるし、本来Ebm7 Ab7 (Db)というDb メジャーが一瞬紛れ込んでいると解釈もできる。22小節目、ここでAm7 D7 で F#の音を鳴らすことで一瞬VI度調であるG マイナーになっている。これは実に効果的で、次の24小節目の Fm7 Bb7 は一瞬のIV度調(Ebメジャー=下属調)だが、これとあいまって心地よく調性感をドライブされる。最後に30小節目のドミナントにさりげなくGbの音が鳴って、flat 9thを響かせる。
歌詞に「キムタク」が出てくるので、ご本人に声をかけたところ、山下=竹内家のホームスタジオに4駆で単身乗り付けて(まりやさんは「やっぱり度胸ある」と思ったとか)「ささやき」とコーラスを入れていかれたそうである。
チャイコフスキーの悲愴を取り上げるのは「私の記憶がたしかならば」二回目。第3楽章のブライトコプフの楽譜で練習番号Dの部分。
同じ音形がバスの上で、バイオリン、クラリネット、ビオラ、ホルンと受け渡されるのですが、ちょっと変わった響きになっています。和声的には最初のバイオリンがDの和音(所謂ホルン5度)で、次のクラリネットがEb7(バスのC#はEb7の7度音のDbと同じ音)、ビオラがEの和音でさらに半音上、最後のホルンがBb7 になっていますが、バスのBbを中心に考えればそうなりますが、旋律はDのディミニッシュというべきでしょうか(D,E,F,G,G#A#,B,C#)。音はこちら。
最初の時にはテーマ部分のどんどん下がるベースラインを取り上げましたが、おなじスコアで練習番号CCの部分の延々下がっていくベースライン。
延々と19個の和音が繋がりますが、繋がり方はいろいろで、
D→C7 主和音から全音下のVIIbに入る
C7→B7 半音下へ七の和音の並行異動
B7→C7 もとの和音にもどるが転回形をかえて7度音をバスに
C7→A 短三度下への移動 VI へ
A→G 全音下への移動 属和音から下属和音への弱進行
G →B7 長三度上への移動 Gから見ればIII7へ。
B7→E やっと出てきた普通の5度進行。
E→F7 半音上への進行。一種の偽終止。
F7→D 短三度下への移動。
D→Eb7 これも偽終止型。
Eb7→E 同上。
E→A 5度進行。
A→Bb7 偽終止型。
Bb7→G 短三度下への移動。
G→F これも弱進行。
F→A7 長三度上への移動。
A7→D 5度進行。
D→Am 5度和音の短三和音へ。
ここで、最後がAmになっているのが気になります。二つ前の和音ではA7で高らかにC#をならしていたのが、ここで、バスにCナチュラルがくるのですが、これは間接的な対斜であり、異例な処理です。気になる。トップのラインが C# D E といったら、バスは E D C#と行きたいところ E D C になってるんですよねぇ。うーん、気になる。音はこちら。
「小澤征爾さんと、音楽について話をする」という小澤征爾・村上春樹両氏の対談があるのだが、その中でブラームスの第一交響曲第4楽章のホルンの息継ぎ問題が語られている。本には一切譜例がないのだが、著作権も切れているのだし、例示なのだから、ちょっとした譜例くらい載せればいいのにと思う。が、まーいろいろ事情があるのであろう。次の部分である。
「ホルンの患継ぎの真相
村上「ところでこの前のとき話した、ブラムスの交響曲一番四楽章で、ホルン ソロが一小節ごとに短く交代するという部分について、もう少し詳しくおうかがいしたいんです。あのあと映像を見てみたんですが、僕の目にはどうしても、奏者が交代しているみたいには見えないんです。これは1986年に小澤さんがボストン交響楽団と来日して、大阪でやったときの映像なんですが」
(二人でその部分を見る。ホルンのソロの部分。)
小澤「ああ本当だこれたしかに交代してないね。あなたの言うとおりだ。うん、そうだ思い出したこのホルンを吹いている人ね、チャツク・カバロスキーっていう大学の先生なんです、物理学とかそういうのを専門にしていて。それでもう、超変わった人なんだ。もう一度そこのところを見せてくれますか?」
(同じ部分を見る。)
小澤「いち、にい、さん…ほら、ここのところ音が鳴ってない」
村上「ホルン奏者が息継ぎをする部分が、空白になっているわけですね」
小澤「そうです。音が途切れている。これはね、ブラームスにとつては悪いことをしているんです。本当はここで空白をあけちやいけないんだ。ところがこれがなにしろ頑固な男で、自分はこうするんだ、ということで通しちやった。レコーデイングをするときに、この部をどうするかで問題になったんです。これに続くフルートのソロを見てみましょう」
(ホルンのソロが終わり、同じテーマのフルトのソロになる。)
小澤「いち、にい、さん…ほら、ここはちやんと音が鳴っているでしょう。この人は息継ぎをしている間、二番フルートに音を繋がせているんです。だから音が途切れない。それがブラームスの指定していることです。ホルンも同じことをしなくちやいけないんだ」
(画面を見ているとよくわかるのだが、奏者が楽器から口を離している間も音は鳴り続けている。レコードで聴いていると、これはまつたくわからない。)
村上 「息継ぎする間、二番がバックアツプする。一小節ごとに交代するというのは、つまりそういうことなんですね」
小澤「そういうことです。あなたいいところを見つけたね。これって、僕が言ったから見つけたわけでしょう?」
村上 「もちろんです。言われなかったら、そんなこと気がつきもしません。
(DVDを替える)
それから、これはサイトウ・キネンの演奏です。1990年のロンドン公演です」
小澤「いち、にい、さん…ほら、息継ぎをしているけど、ちゃんと音は続いて出ていますね。ほらね、音が途切れないそして二小節目と四小節目の頭は、二人で同時に吹いているそのように指定してあります。そこがね、ブラームスの面白いところなんだ」
村上「でもボストンのホルン奏者はその指示を無視したんですね?」
小澤「そう、個人的に無視した。これでいいということで、断固として押し通した。ブラームスの考えたトリックを排除したわけです」
村上「どうしてそんなことをしたんでしょう?」
小澤 「きっと音色が変わることを嫌がったんだね。そのときもけっこう問題にはなったんですが。ここにあなたが買ってきたスコアがあるから、ちょっとそのところを見てみましょう」
最初、ホルン2本で、それを引き継いでフルート2本で同じ旋律が演奏される。ホルンあるいはフルート一本だと、メロディーの息が長いためにどうしても息継ぎが発生する。それを避けるために、1stが旋律を吹いて、ブレスを取る時に2ndが音が切れないように同じ音を延ばして吹くという発想である。(赤枠で囲ったところ)
実はこのメロディーは曲の後半で形を変えて出てくる。こちらはやや複雑になっていて、2つのメロディーが交互に鳴るようになっており、ここでは息継ぎ問題は発生しない、とブラームスは考えたようである。ここではホルンの1と第一バイオリンがひとつの旋律を担当し、オーボエの1とホルンの2、さらにバイオリンの2がもう一つの旋律を担当して掛け合いになっている。