R. ターガート・マーフィー「日本ー呪縛の構造(上)」から
「たとえば 、ドイツの作曲家リヒャルト ・ワ ーグナ ーが一八五〇年に発表した 『音楽におけるユダヤ性 』という醜悪な内容の論文はきわめて大きな影響力を持つようになった 。その中で彼はユダヤ文化の影響を激しく批判し 、偉大な芸術は特定の文化の中で育ち 、それと有機的な関係を結んでいる人々にしか創造できないと主張した 。」
この部分には注7が付されており、注7では、マーフィーはこう言う。
「実は現代のイスラエルも国家として誕生する際にワ ーグナ ーの影響を受けていた可能性がある 。ユダヤ人の失われた祖国を取り戻すシオニズム運動の創始者テオド ール ・ヘルツルは 、ワ ーグナ ーの主張の核心部分を受け入れていた 。彼はユダヤ人が他に恥じることなく誇り高く生きていけるように 、彼らだけの国家を建設しようと考えた 。ところが彼が残した日記の記述が本当なら 、ヘルツルがこの構想の発想を最初に得たのは 、ワ ーグナ ーのオペラ 『タンホイザ ー 』を鑑賞している最中であったことになる 。ワ ーグナ ーの美的感覚には日本的なところがほとんどないにもかかわらず 、日本のクラシックファンに熱烈な愛好者が多いのもむべなるかなと思える 。 」
ちょっと待て。
イスラエル建国の功労者のヘルツルが、ユダヤ人国家を着想したのが「タンホイザー」を聞いてる途中だったと。
それと、日本的美的感覚と共通点がないにも関わらず、日本のクラシックファンに「タンホイザー」ひいてはワーグナーの熱烈な愛好者が多いのと何の関係があるのか。
形式論理的にはマーフィーの言うのはこういうことだろう。即ち、
1.ワーグナーは偉大な芸術は特定の文化の中でしか創造できない、と言っている。
2.ワーグナーはユダヤ人は特定の「優れた」文化を持たないから偉大な芸術は創造できない。
3.ヘルツルはこれを逆に解した。すなわち、ユダヤ人でなければユダヤの伝統文化に深く根差した「偉大な芸術」は創造できない。
4.したがって、そのような文化を育て、「偉大な芸術」をも創造できるようなユダヤ人国家が必要だ。
5.日本人も同じようなことを考えた。日本の国粋主義がそれであって、ワーグナーの音楽とワーグナーの思想に共感するクラシックファンが多いのだ。
無理筋である。
日本人にワーグナー愛好者が多いのは、
1.それが優れた芸術であるから
2.日本人は明治期以降、西洋音楽を徹底的に研究し尽くしたので、この文化を血とも肉ともしていること。
念のために指摘しておくと、日本の西洋音楽愛好者はひとりワーグナー、あるいはドイツ音楽が好きなだけではない。フランス音楽もロシア音楽も東欧の音楽も南欧の音楽も押しなべて好きである。
したがって、もともと論旨あいまいではあるが、マーフィーの日本の音楽愛好家に対する評価ははずれである。更に言えば、日本的美的感覚というのはなにも茶の湯や禅や枯山水ばかりではない。明治以来140年。日本人は西洋的美的感覚も相当程度学習しているのである。